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犬伏雅一のHomepageへようこそ。

自己紹介

生まれから中学校まで

1950年,大阪は,十三生まれ。Catlover。(猫侍見るべし…)

ひかり幼稚園から神津小学校へ。
神津小5年のとき急性腎炎で半年入院。本など読んだことがなかったのに,少年向け江戸川乱歩ものに熱中。

新北野中学1年の冬,下村湖人『次郎物語』に感激、本格的に小説を読み始める。特に川端を愛読。
一方,2年の夏,ナチの強制収容所ブーヘンヴァルトのルポルタージュに衝撃を受ける。
3年,デデキントの無理数論に熱中,そのためかドイツ語に興味を持ち始める。


高校から大学へ

北野高校では,理科系で数学を勉強するつもりであった。
旧制中学の伝統を引く弁論部に入部。1968年へ向けて学内騒然。この頃から語学癖が昂じてくる。
府立図書館の市河文庫に通う。
友人に吉本の『言語にとって美とは何か』を薦められ,これがきっかけで,時枝,三浦,ソシュールを読む。
彼からランボーとロートレアモンをも教えられた。
何故か図書館にあったフッサールを読み、先輩の口から出たベルグソンを齧る。
文系へ志望変更。大阪市大文学部不合格。数学への関心が回帰して理学部への受験を睨んで高木貞治の「解析概論」に熱中するも、次第にドストエフスキーにのめりこむ。

1968年神戸大の夜間部経済学専攻へ。神戸大は紛争のため授業がなく,中退。
翌年東京へ。クロマート現像所でコダックの自動現像機のメンテ担当。
浅草の古道具屋で買った写真機で写真を撮る。
夜,東京日仏学院に通学。バシュラールとメルロー・ポンティーに出会う。

飯田橋の日仏での授業中?に三島自刃。大学を再度目指して帰阪。京都日仏学院へ。
翌年(1972年)京都大学文学部に入る。
京大では,ドイツ語優先のクラスに所属。担任(?)は高木先生で初めてベンヤミンを本気で読み始める。
水野先生のラテン語週8時間コースに感激。デカルトのラテン語なんてくずだと言わんばかりの水野先生のことが気になったが,西洋古典学へは進まず。
倫理学か純哲か美学か言語学かと迷って,言語学科へ。チョムスキーよりフンボルトが好きだった。
同級生のO君と共にプラグマティズムへ傾く。フッサールとハイデガーを耽読。
デリダと出会って,卒業時点では,言語哲学に傾く。


大学院より現在・・・

大学院浪人を4年間。
親友の医学生の影響で仏教書を耽読。
運動神経皆無ながら,5年目はないと思って就職のため自動車の免許を取得。この時期,中学の塾ならびに予備校(YMCA)で一番嫌いな英語を教え始める(これが22年間つづくとは思いもよらず)。
とにかく大学では一切英語の授業を取らなかったのである。

大阪大学大学院へ。
阪大では石田正先生の下でフィードラー,ハイデガー,ガダマーを読む。ウィットゲンシュタイン,ドゥルーズを本格的に読み始める。
博士後期課程に入学後持病で入院。
大学院の学生と予備校(河合塾)の教師の掛け持ちが本格的に始まる。
1987年大阪大学文学部大学院博士後期課程単位取得退学(美学専攻)。韓国・アメリカへ短期の調査。

アメリカから半年後に帰国,河合塾の英語専任講師として働き始める。
学校向け英語問題集を書き始める。以後,河合塾の英語科専任講師とナショナル大学日本校付属日本語学校非常勤講師,京都芸術短期大学非常勤講師などを兼務。
河合塾では英作文のプロジェクトに所属し、日本人の誤用パターンをメンバー全員で追求する一方で、京大模擬試験のチーフや衛星授業を担当。
ナショナル大学では日本語文法の概論を講義。
京都芸術短期大学は、ルネサンス研究家で小説家の畏友澤井繁男君が体調を崩したためのピンチヒッターで一年間外書購読を行った。
大阪芸術大学非常勤講師を経て2001年より現職。

2012年より芸術計画学科・学科長。


専門

映像論・美学

所属学会

日本映像学会
日本写真芸術学会
日本美学会
日本記号学会
表象文化論学会
イタリア学会
文化経済学会
日本文化政策学会

勤務先

〒585―8555
大阪府南河内郡河南町東山469
大阪芸術大学芸術学部
芸術計画学科
TEL.0721-93-3781(代)